国家安全保衛部

국가안전보위부

◆国家安全保衛部長:金正日兼任?/第1副部長?(第1副部長金ヨンリョンが部長代行だったが、数年前粛清)

◆平壌特別市西城区域ヨンモッ洞22階建ビル(牡丹峰区域にも庁舎があり、チャングァン山旅館等、安家多数)

◆国家政治保衛部→国家保衛部(82年名称改定)→国家安全保衛部(93年名称改定)

◆反探と国内査察が主任務

◆韓国の国家情報院と類似して見られるが、国家情報院より担当任務範囲が狭い。

 韓国の国家情報院(安全企画部)に該当する査察及び諜報機関である。1973年、社会安全部から分離独立した。1987年、国家保衛部長李真秀の死亡以後、保衛部長が誰なのか正確に明らかにされておらず、金正日が兼任しているものと推測されているが、確実なことは分からない。

 国家安全保衛部の主任務は、反探(国内防諜)で、北朝鮮内の政治及び思想動向異常者及び外国間諜を摘発する組織である。国家安全保衛部は、金父子誹謗事件捜査及び政治犯収容所管理、反国家行為者及び対間諜捜査、空港・港湾等の出入統制及び輸出入品検査と密輸取締、海外情報収集・工作、護衛司令部の協調下での金正日を始めとする高位幹部護衛等の任務を担当している。従って、積極的な対外工作は、国家安全保衛部の主任務ではない。ただ、反探任務と関連して、中国東北地方、香港、マカオ等の地に海外組織も運営する。

 組織体系としては、部長の下に組織・捜査・検閲等、数名の副部長がおり、傘下に行政体系に従い、道(直轄市)・市(郡)保衛部を置き、里単位にまで保衛部員が常駐しており、機関・企業所等にも保衛部要員を派遣している。

 特に、国家安全保衛部第2局は、海外反探局(82年創設)である。第4局は、海外工作の責任を負っており、第8局は、日本出身北送僑胞を担当するという。第2局−海外反探局は、計4課で構成されるが、1課はヨーロッパ、2課は北米、3課は総括、4課は東アジアを担当する。対外工作を担当する労働党35号室等の別途組織があるため、韓国の国情院よりは任務管轄範囲が狭い方である。

 国家安全保衛部の海外工作員(2局要員中、海外活動者)1名に工作土台構築のための協調者、即ち、「手先」は、最高10名まで 置けるように許されているが、任意に置くことはできない。協調者の身分と家族事項、思想、利用価値等を綿密に検討し、数多くのテストを経て、変節の可能性がないという心証を固めた後、上部の決裁を受けて始めて正式協調者として擁することができる。協調者包摂に必要不可欠な工作金は、工作員毎に毎月50米ドルが支給されたという。

■歴代保衛部長達の凄惨な末路

 保衛部は、前には、国家政治保衛部と呼ばれたが、初代国家政治保衛部長には、当時、金日成の身辺警護を専門にしていた護衛総局副局長金炳夏が任命された。金日成は、国家政治保衛部に絶対的な権限を賦与した。
 
 金日成は、『国家政治保衛部は、党の一部署であり、私に直接服従する』と語った。このときから、保衛部は、外形上、北朝鮮の労働党中央委員会の指示を受けていたが、実際には、金日成と金正日の直接指示を受け、全事業を行ってきている。

 北朝鮮は、1973年から、国家政治保衛部を通して、数多くの「言葉の反動」(言葉によって、北朝鮮体制や金日成・金正日を批判する者を称する言葉)達を検挙、処刑することによって、北朝鮮住民の中に独裁に対する恐怖感を造成し、敢えて反発できないよう にした。このような独裁が度を外れたと意識されると、1980年初め当時、国家政治保衛部長をしていた金炳夏を、曖昧な群集を処刑し、党と大衆を離脱させたという理由で粛清した。

 金炳夏は、金日成の体制を強固にし、世襲体制の構図を完成するのに大きく寄与したが、結局、政治の 篭絡物に過ぎず、金日成に必要ない存在となった事実を知り、自身の執務室で拳銃自殺することで人生を締めくくった。

 2代国家保衛部長には、社会安全部長をしていた李鎮洙が1982年頃に任命された。以後、国家保衛部は、金正日が直接掌握し、随時事業情形(いかなることがなされているのかという状態)を 聴取して、指示を下している。

 国家保衛部が金正日にファックスで事業情形を報告する日は、毎週木曜日で、国家保衛部長は、その他重要な事案や至急な問題が提起されれば、任意の時間に金正日を訪問した。金正日が地方を現地指導するときも、常に同行した。李鎮洙は、1987年8月、黄海南道○○郡安全保衛部事業実態を 把握しに出たが、郡安全保衛部の寝室で眠っていたところ、栗の木のガスで中毒し、死亡した。

 彼が死亡した後、金正日は、彼に共和国英雄称号を授与し、死体に英雄メダルをかけてやり、葬礼を国家葬とすることを指示し、TVと放送、新聞を通して、彼の忠誠心を大々的に宣伝するようにした。北朝鮮は、李鎮洙の死亡を契機に、初めて公式的に北朝鮮住民に国家保衛部の存在を知らせた。

 李鎮洙死亡後、金正日は、今まで保衛部長を任命しておらず、第1副部長が保衛部の全般事業を掌握、指導し、後ろで保衛部の実際的な権限を行使している。

 李鎮洙死亡後、国家保衛部の実勢である第1副部長に任命された者は、当時、国家保衛部副部長だった金ヨンリョンである。彼は、1942年平壌出身で、金正日とは、金日成総合大学時代の同窓で、彼から格別な信任を受けていた。

 1989年7月に平壌で開かれた第13次世界青年学生祝典直後、平壌祝典過程であった重要事案に対して、金正日に適時報告しなかったという理由で左遷され、咸鏡北道保衛部長に落とされたが、1年8ヵ月後の1991年初め、金正日の お呼びが掛かり、再び国家保衛部第1副部長に任命された。

 金ヨンリョンは、金正日の格別な信任により、1992年4月には、人民軍上将の軍事称号を、その年の12月には、党中央委員会委員となり、1997年4月には、人民軍大将の軍事称号を授与された。
 
 このように信任していた第1副部長金ヨンリョンが重大な事件に対して報告せず、自分と別れたと考えたのか、金正日の不満は、並大抵ではなかった。保衛部に検閲を 行った成員達は、了解情形(把握された状況)を毎日金正日に報告し、この過程において出所が曖昧な韓国の資金が中国を通して保衛部幹部達にまで伝達されたが、保衛部は、このような事実を金正日に全く報告していなかった事実が明らかにされた。
 
 金ヨンリョンの事務室書類箱には、反体制事件と関連して、処理の可否を待つ50余件の事件が彼の決裁を待っていたが、いかなる理由なのか、1件も決裁していない状態だったという。

 この事実の報告を受けた金正日の指示により、検閲成員は、1998年4月5日午前9時から保衛部庁舎において、集中指導検閲叢話を進行し、金ヨンリョンと彼に追従する副部長、局長達を反党・反革命宗派分子 の烙印を押した。政治的・肉体的生命も保存する見込みがないことを看破した金영룡は、予め準備しておいた劇薬(砒素だと伝えられた。)を飲んで自殺した。

上へ 国家安全保衛部 北朝鮮の国家安全保衛部と人権問題 国家保衛部政治大学 国家保衛部の特殊情報員運営

最終更新日:2003/10/29

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル